アトリエ付き住宅の理想像
今年(2022年)に入って、ご所有の土地にアトリエ・工房付きの賃貸住宅(=アトリエ賃貸)をつくりたいという相談をいくつも頂戴するようになりました。
美大近くに多くの土地を持っている地主さん、「ものづくりをする人を応援したい」という大家さん、アーティストの力を借りて我が街を活性化させたいという地主さんなど、動機はそれぞれ異なりますが、アトリエ賃貸に関心を持っていただけるのは本当に嬉しい限り。この機運を逃さないためにも、アトリエ賃貸づくりのためのリサーチはペースを速めていこうと思っています。
さて、「アトリエ賃貸推進プロジェクト」ではこれまで美術作家さんたちのアトリエや工房を紹介してまいりましたが、多くは住居を別に構えておられました。今回は今の私にとって最も理想に近いアトリエ付き住宅をご紹介したいと思います。
Vol.002で戦前、池袋周辺にあったアトリエ村・「池袋モンパルナス」について本田晴彦さんにお話を伺いましたが、今回のアトリエ付き住宅は、当時の姿を今なおとどめる歴史的建物です。
所有者は建築家の春日部幹さんで、画家だったお父様(春日部洋氏)が亡くなるまで暮らしていた家を引き継ぎ、リノベーションを重ねながら、ご自身の事務所兼住居として大切に使っておられます。 その全体像を、春日部さんのお話をまじえつつご案内します。
[春日部幹(かすかべ・かん)さんのプロフィール]
一級建築士。春日部幹建築設計事務所・代表取締役。京都芸術大学・非常勤講師。東京都木造住宅耐震診断技術者。
1969年、東京都で生まれ、フランス・パリで育つ。父・春日部洋、大叔父・春日部たすくは画家。
1994年、東京理科大学工学部建築学科を卒業後、上野・藤井建築研究所、PHスタジオを経て、2000年に春日部幹建築設計事務所を設立。
以後、集合住宅、戸建住宅、福祉施設などの「住まい」を中心に、建築として求められる快適性や安全性だけでなく、そこに住む人々の好みや体力、コスト感覚、ライフサイクリに応じたフレキシビリティなど、きめこまやかに考えることをモットーに設計を続けている。
URL. https://kasukabearchitect.com/
春日部邸のアトリエ
春日部邸は東京メトロ有楽町線「千川」駅から歩くこと11分、閑静な住宅街のなかに佇んでいます。近くには画家・熊谷守一氏が45年間住み続けた旧宅跡地に建てられた熊谷守一美術館があるなど、あたり一帯が「池袋モンパルナス」と呼ばれていた時代の名残りが感じられるエリアです。
この家屋は春日部さんの父・洋氏が画家・野口彌太郎氏より買い受けました。
「野口先生は1945年ごろ、代々木にあったアトリエが空襲で焼かれ、この家を買われたと聞いています。それ以前はどなたが住んでいたかわかりません」(春日部さん)。
池袋モンパルナスには大家さんたちが賃貸住宅として建てたものと、分譲用に建てられたものの2種類あると聞いていますが、春日部邸は後者で、現存する賃貸住宅にくらべると、ひと回り大きなものになっています。
1999年に洋氏、2015年にお母様が亡くなられ、この家を相続した春日部さんは、ご自身が暮らしやすいようリノベーションをされてきたので、そっくり以前の姿のまま残されているわけではありません。「ガウディのサグラダファミリアじゃないですが、ずっと手を加え続けていて、終わりは決めていないから、これからも変わっていくと思います(笑)」(春日部さん)。
しかし、アトリエは当時の面影を色濃く残しています。このスペースが絵画制作に適したものであることを説明してまいります。
アトリエは幅5.4m、奥行き5.4mで、畳数にすると18畳大の広さです。床は板敷きで、「作品制作の場としてお貸しする際は絵の具などが付着しないよう、養生マットを敷いていただいています」(春日部さん)。
特筆すべきは天井高が約4.8mもあるという点。とりわけ西側の壁面には窓がなく、大作を描きやすいつくりになっています。
北側の壁から天井にかけては大きな窓があり、自然光が降り注ぎます。
池袋モンパルナス当時は電力供給が十分ではなかったので、制作時は自然光を取り込むことが必須でした。天窓が北側にあるのは安定した採光を得るためです(南側に大きな窓があると、時間の経過とともに日照がどんどん変化してしまいます)。
フェルメールのアトリエにも北向きの天窓があったそうですから、昔からアトリエには北向きの天窓が良いというのは定説だったのでしょう。
ちなみに南側の上部壁面と天井にも小さな窓がついています。
「南側壁面の横長窓は父の時代に新設しました。その上の天窓は屋根の改修工事に合わせて私がつくったものです」(春日部さん)。
光量を増やすために行った工事ですが、それでも作品制作に支障を来さないよう最小限にされています。このあたりの配慮は大叔父・たすく氏、父・洋氏と画家の血を引く春日部さんならではのことだと思います。
メゾネットになっているというのも重要なポイント。現在の階段は春日部さんが設置されたものですが、当初よりメゾネット構造になっていて(階段は別の場所にあったそうです)、吹き抜けになっている上階から西側の大きな壁面に掛けた大作を俯瞰して眺めることができます。
こちらはアトリエに隣接している春日部さんの仕事場の写真ですが、「もともとは作品保管スペースとして使われていたところを改築しました」(春日部さん)。これだけの広さがあればかなり多くの作品をストックしておくことができたでしょう。小さな窓が多く、しっかり換気をすることができる小部屋です。アトリエのすぐ横に保管スペースがあったのも便利だったと思います。
アトリエの東側、庭に面した壁には作品を搬出入する扉があります。「開き戸は池袋モンパルナス時代からありましたが、私の代になって引き戸を増築しました。ガラス窓にはパルナソスの池(※後述します)のメンバーに絵を描いてもらっていて、間もなく完成予定です」(春日部さん)。
扉は細長いので人が通り抜けるのは大変ですが、作品を縦にして出し入れするには十分な幅。非常によく考えられたつくりになっています。この扉は池袋モンパルナスの住宅には賃貸・分譲問わず設置されていたと聞いています。
こちらの画像ですが、左側の扉が湾曲していることにご注目。
これは春日部さんがリノベーション工事をするとき、オリジナルでつくった引き戸です。なぜ湾曲しているかというと、「扉を引き込む壁面に絵が掛けられていても大丈夫なようにするため」(春日部さん)とのこと。こんな建具は初めて見ましたが、アトリエにはピッタリですね。
アトリエに隣接されたパン工房兼シェアキッチン
さて、春日部さんのリノベーションはアトリエだけにとどまりません。
春日部家は奥様も建築家で、普段はご夫婦一緒に建築設計の仕事をしていますが、「妻はパンづくりもしていて、改築するにあたりアトリエの隣りの部屋をパン工房にしました」(春日部さん)。
パン工房は奥様がパンをつくらない日はシェアキッチンとして貸し出すことも検討されているとのこと。オーブンレンジなどの調理器具も利用できますから、パーティーや料理教室などいろいろな用途で使えそうですね。
春日部さん自身は建築家ですので、アトリエも普段は使用していません。
それではもったいないからと、春日部さんはこのアトリエを公開制作や企画制作をする場としてレンタルするプランを考えています。
上の写真は昨年(2021年)12月に行われた公開制作の様子です。
公開制作をしたのはアーティストコレクティブ「パルソナスの池」。池袋モンパルナスのあったエリアで活動をしている4人の美術作家(淺井裕介・高山夏希・松井えり菜・村山悟郎)のユニットで、取材した時点(2022年2月)もなお、このアトリエで制作を続けていました。
「アトリエとシェアキッチンは別々でも、セットでも貸し出すことができるようにしようと思っています」(春日部さん)。
セットで借りれば、企画展を開催している期間中、ワークショップやパーティーができるので、どんなイベントが催されるのかとても楽しみ。
ただ、春日部夫妻の本業があり、いつでも貸し出すことはできないので、「こんなふうにして使ってみたい、という企画書を送ってもらい、私たちが面白いと感じたものに限定して場を提供することになりそうです」(春日部さん)。使用時間や料金なども未定なので、決まりましたらあらためてご案内したいと思います。
春日部さんのアトリエ賃貸構想
春日部邸は、ご覧いただいたアトリエ、パン工房兼シェアキッチン、春日部さんの仕事場のほかに、家族用のダイニングキッチン、バスルーム、応接室、寝室から成っています。
プライベート空間の写真は掲載を控えますが、2階に移設されたサンルームのようなバスルーム、図書室かと見紛うような応接室など、とても素敵な家でした。
「公開制作を行うときなどにこの建物も見学いただけるようにしようと思っています」(春日部さん)とのことなので、チャンスを見つけて是非訪れてみてください。
最後に、春日部邸を引き継ぐ者及び建築家としての観点から、春日部さんにもアトリエ賃貸の構想を伺いました。それをご紹介して本稿を閉じたいと思います。
「都心で集合住宅形式のアトリエ賃貸を建てようとするとき、広い土地の確保が難しいというネックがあります。その点をふまえ、アーティストの住まいやアトリエ、保管スペース、ギャラリーなどをひとつのエリアに点在させ、ネットワークで結ばれるというスタイルがいいのかもしれません。
旧・池袋モンパルナスエリアでは、私の家もその一部となり、アーティストたちが暮らし、作品を生み出していく街にしていけたらいいですね。
アートにあまり興味がない人でも、アーティストが隣人であれば、どんな人だろう、どんな生活をしているのだろうと興味を惹かれ、アーティストの自由な想像力やタフな生活力から刺激を受けることは多いと思います」
文:久保田大介